1911年
フォード・モデルT(Ford Model T)は、アメリカ合衆国のフォード・モーター社が開発・製造した自動車である。
アメリカ本国ではティン・リジーなどの通称があるが、日本ではT型フォードの通称で広く知られている。
1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産された。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみである。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及した。
基本構造自体、大衆車として十分な実用性を備えた完成度の高い自動車であり、更にはベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめ、近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車という点でも重要である。
自動車技術はもとより、「フォーディズム」の語に象徴されるように労働、経済、文化、政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越して、20世紀前半の社会に多大な足跡を残した存在である。
1896年に、自力で最初のガソリン自動車を開発したヘンリー・フォードは、1899年に新たに設立されたデトロイト・オートモビル社の主任設計者に就任するも、出資者である重役陣との対立で1902年に退社した。その後任には精密加工の権威であるヘンリー・M・リーランドが就任し、社名をキャディラックと変更している。
ヘンリー・フォードは1903年に自ら社長を務める新自動車会社フォード・モーター社を設立、デトロイトに最初の工場であるピケット工場を開設した。
その初期には、車体中央部床下に2気筒エンジンを搭載してチェーンで後輪を駆動する「バギー」と呼ばれる種類の小型車を生産していた。当時のアメリカの道路は悪路が多く、ヨーロッパ車に比べて洗練されていない形態の「バギー」型車の方が、かえって実情に即していたからである。1903年の「モデルA」、1904年の「モデルC」、1905年の「モデルF」が「バギー」にあたる。
しかし、程なく本格的な自動車が求められるようになったことから、1905年の「モデルB」では、フォードの量産車としては初めて直列4気筒エンジンをフロントに搭載し、プロペラシャフトで後輪を駆動するという常道的なレイアウトに移行した。1906年には出資者であるアレグザンダー・マルコムソンらの意向で、大型の6気筒40HP高級車「モデルK」も開発したものの、生産の主流とはならなかった。フォード社は、当時からあくまで小型大衆車生産に重点を置いて活動していた。
1906年末 には「バギー」モデルFに代わる本格的な4気筒の小型車「モデルN」を発売した。2気筒12HPのモデルFが1,000ドルであったのに対し、4気筒 17HPのモデルNは、量産段階におけるコストダウンが図られ、半値の500ドルで販売された。まもなく派生型として「モデルR」「モデルS」も開発され ている。
モデルNはごく廉価で性能が良かったため売れ行きが良く、その成功は予想以上であった。このため部分的な流れ作業方式の導入が図られ、工場の拡張も進められたが、それでも生産が需要に追いつかなかった。
当初から量産を考慮して開発されたモデルNシリーズであったが、更なる需要に応じるには既存の体制では限界があり、フォードは生産性の根本的な向上 を図ることを迫られた。そこで、モデルNの設計から多くを参考にしつつも、全体を一新して性能を向上させ、なおかつより大量生産に適合した新型車の開発を1907年初めから開始した。これがのちのモデルTである。
当時のフォードにおける先進性として、部品互換の達成が挙げられる。1900年代の自動車の多くが、個別部品の均一な加工精度確保に難があり、最終 組立段階での手仕上げによる調整を強いられていた中、フォード社はこの時点で、既に先行するキャディラックのヘンリー・リーランドの流儀に倣い、マイクロゲージを 基準とした規格化によって部品互換性を確保していた。ここではミシンメーカーであるシンガー社出身で、フォードのプロダクションマネージャーに短期間なが ら就任していたウォルター・フランダース (Walter.E.Flanders) が重要な働きを行っている。部品互換の実現は大量生産の大前提であり、フォードはこの点で大衆車業界での競合他社に一歩先んじていた。
一方これと同じ頃、冶金学の研究が進んでいたイギリスにおいて、新種の高速度鋼「バナジウム鋼」が開発された。従来の鋼材に倍する張力を備えながら、軽くてしかも高速切削加工が可能という、自動車用の素材として理想的な材質である。ヘンリー・フォードはこれを知り、新型車にバナジウム鋼を多用して生産性向上と軽量化を図ることにした。
モデルTの開発作業は、1907年初 めから開始された。ヘンリー・フォード自身をチーフとし、C.ハロルド・ウィリス (Childe Harold Wills) 、チャールズ・ソレンセン (Charls Sorensen) など、社内でも限られたスタッフのみによって、極秘に進行されることになった。
作業にはピケット工場内の個室を特に充て、ヘンリーの指示に基づいてハンガリー出身のジョセフ・ガラム (Joseph Galamb) が作図を行い、別室では19歳の機械工チャールズ.J.スミス (Charles.J.Smith) が実際の部品製作に当たった。ヘンリーはしばしば長い時間揺り椅子にもたれつつ、部下に指示を行ったという。実験段階における初期の試験台には、実績のあるモデルNシャーシが利用された。
モデルTは1907年10月に最初のプロトタイプ2台が完成、翌1908年3月に発表されたが、市販開始は同年10月からとなった。デトロイトのピケット工場で最初の市販モデルTの1台がラインオフしたのは、1908年9月27日のことである。
モデルTは、最初600ドルでの販売を計画したが、実際にはコストダウンが追いつかず、モデルNよりやや上級のクラスとして850ドル以上の価格で 発売された。それでも同クラスの自動車が1,000ドル台の価格帯であっただけに非常な好評で、翌1909年4月までには3か月分のバックオーダーを抱え ることになり、7月までの受注停止を強いられた。1909年の1年間だけでも1万台を越えるモデルTが生産され、当時としては桁外れのベストセラーとなっ た。
この大ヒットに直面したヘンリー・フォードは、並行生産していた小型車モデルN、R、Sや高級車モデルKの生産を停止し、モデルTただ1種に絞り込んだ大量生産を決断した。
以後のモデルTの歴史は、モデルTという単体の自動車自体の発展以上に、大量生産技術の発展の歴史であった。ヘンリー・フォードと彼のブレーンたちは、モデルTという元々完成度の高い実用大衆車を、速く大量に効率よく、そしてより廉価に供給することを目的に活動した。
フォード社は販売後のサービス体制にも配慮を怠らなかった。アメリカ全土で広域に渡るサービス網を整備し、補修パーツがストックされるデポを各地に 設置した。モデルTは元々タフネスで故障も少なく、造りがシンプルで素人にも整備しやすかったが、アフターサービスの充実は、ユーザーからの信頼をより高 める結果になった。初期モデルTの「Ford, the universal car(万能車フォード)」「フォードのやり方を見よ!」といった宣伝フレーズからも、ヘンリー・フォードがモデルTに抱いていた大きな自負をうかがえる。
1910年、ピケット工場に代わる主力生産拠点として、当時世界最大級の自動車工場であるハイランドパーク工場が、デトロイト郊外に完成した。60エーカー(=24ヘクタール)の面積を取った明るい工場は、大出力ガスエンジンと電気モーターを動力源に用いた近代的生産設備を備えていた。
この頃フォードでは、部品の大規模な内製化を始めた。外注部品の供給状況によって生産効率が左右され、ひいてはコストが上昇することを、ヘンリー・フォードが嫌ったためである。
モデルTは1912年型から生産性を高めるため、従来3種類から選択できたボディ塗色を、黒のエナメル塗り1色のみに絞り込んだ。黒塗りを選んだのは、黒塗装が一番乾きが早く、作業効率が良かったからである。
フォードのピケット工場における初期の自動車生産は、基本的には1か所に据えられた自動車シャーシに、各工程を担当する作業員が入れ替わり立ち替わ り部品を取り付けていく形態であった。当時はどの自動車メーカーも似たり寄ったりの製造方式を採っていた。生産台数がごく少ないうちはこれでも済んでいた が、フォードのように大規模な量産に取り組む場合、据え置き組立では効率が悪すぎた。
フォードでは既に1908年の時点から、工場内の部品供給・移動の合理化によって生産効率を高める工夫が始められていたが、最後に生産効率改善の ネックになってきたのは、組み上がっていく製品を移動させることだった。チャールズ・ソレンセンらフォードのエンジニアたちは、シャーシをソリに乗せて移 動効率改善を図ってみるなど試行錯誤を重ねた。一方、複数工程をシンクロナイズして同時進行させ組立効率を高める「ライン同期化」への試みも行われてい る。
初期のモデルTの生産も、基本的にはモデルNと同様な手法が採られていた。ハイランドパーク工場稼働開始時点でも、フォードの生産方式はまだ従来の 域を脱していなかったが、当時のアメリカは労働力不足の状態で、限られた人的資源の枠内で抜本的な変革を行い、生産効率を高めることが早急に求められてい た。
フォードが本格的な流れ作業方式を導入したきっかけについては、「シカゴの 食肉処理工場(缶詰工場という異説もあり)での実例を見たヘンリー・フォードの発案」という俗説があるが、実際にはそのように単純なものではなく、フラン ダースやソレンセンらによる数年間に渡っての試行錯誤の結果、ハイランドパークへの生産移行後に満を持して徐々に導入を始めたのが実情のようである。流れ作業という生産手法自体はフォード以前から存在していたのであるが、俯瞰的な視点から大規模な流れ作業システムを構築し、それら複数を連動して機能させるようにしたことが、フォード社の画期的な功績であった。
本格的な流れ作業導入の最初はエンジンのフライホイールだった。1913年4月時点で、モデルTのマグネトー組込式フライホイール生産は、一人の作業員が全行程を専属で行った場合、1個あたりの完成まで20分を要した。ベルトコンベアの流れ作業方式による分業体制を用い、各工程で作業員の動きに無駄の生じないポジションを取らせるなどの対策を採ると、フライホイール1個の完成所要時間は13分に減少し、更なる改良で1914年には、フライホイール1個を5分で組み立てられるようになった。前年の4倍の効率である。
この手法で、他の工程についても同様な分業による流れ作業方式を導入していった。1913年8月からシャーシ組立のベルトコンベア方式切り替えを開始、同年11月からはエンジンについても同様にライン生産化に取り組み始めた。
個別作業ごとの標準作業時間と手順が定められ、実験中にはヘンリー・フォード自らストップウォッチを手に作業員の動きを注視したという。結果として生産過程では、フレデリック・テイラー (Frederick Winslow Taylor 1856-1915) が提唱した科学的生産管理法「テイラー・システム」がいち早く実現されることになった。しかし、フォード自身はのちに「我々自身の研究の結果であって、テ イラーの構築した手法を意識して導入した訳ではない」とコメントし、テイラーとの関係を否定している。
複雑な作業工程も、要素毎に分解すればほとんどが単純作業の集積であり、個々の単純作業は非熟練労働者を充てても差し支えなかった。作業工程はベルトコンベアによって結合され、熟練工による組立よりもはるかに速く低コストで、均質な大量生産が可能になった。
1914年に は、ハイランドパークでのモデルT量産手法はかなり高度な段階に達していた。流れ作業方式による複数の製造ラインを完全にシンクロナイズし、最終組立段階 で合流させて計画通りの完成品とする生産システムが、完全に実現した。「フォード・システム」と言われる能率的な大量生産システムの具現化であった。
シャーシを1階で、ボディを2階でそれぞれ組立て、二階建てラインの末端でスロープを使ってボディを下ろし、シャーシに架装するというハイランドパーク工場の生産光景は、写真等でよく知られるが、この2階建てラインは1914年から見られるようになったものである。
1908年の製造開始当初、1台当たり14時間を要したモデルTシャーシの組立所要時間は、1913年からのベルトコンベア化とその後の改良で、1914年4月には1台当たり1時間33分にまで短縮された。
1917年には更なる大工場、リバー・ルージュ工場の建設が始まった。広大な工場敷地内では、付属部品に至るまでの一括内製が行われ、膨大な台数のモデルTを均質に量産できる体制が整えられたが、この工場が本格稼働するのは1920年代以降である。
ヘンリー・フォードが"日給5ドル"宣言を行ったのは1914年である。単純労働者でもある程度継続して勤務すれば、当時の賃金相場(従来のフォードでの最低日給は2ドル台)の2倍程度に値する日給5ドルを支給するという、驚くべき爆弾宣言であった。
当時、熟練労働者の存在価値が低下しつつあったフォード社では、特に熟練層からの不満が高まり、離職率も高くなっていた。そこでフォード社の営業担 当者だったジェームズ・クーゼンスが、労働者の定着率向上のために待遇改善を提案したところ、ヘンリー・フォードはワンマン経営者らしく、さしたる数値の 裏付けもないまま大盤振る舞いを決定した。
日給5ドルは年収なら1,000ドル以上になり、当時、モデルT1台を購入してもなお労働者の一家が慎ましい生活を送りうる水準である。当然ながらフォードの工場には就職を希望する労働者が殺到した。
だがその高給は、生産ラインでの単調な労働に耐えることの代償だった。生産ラインを着実に動かすことが優先され、工場の稼働時間中、労働者は生産ラ インの進行ペースに遅れることなく、刺激を伴うことのない単調な作業を休みなく続けなければならなかった。フォード工場の労働者はむしろ通常の工場労働以 上に、肉体面・精神面での著しい負担を強いられることになった。
このため実際には5ドル支給時期に達する以前に職を辞する未熟練労働者も多かったが、退職者が生じても「日給5ドル」に惹かれる新たな就職希望者は後を絶たなかったため、既に単純労働の膨大な集合体と化していたフォードの生産体制に支障は生じなかった。
モデルTの大量生産の裏面には、このように過酷な現実があった。流れ作業方式は、のちにはチャールズ・チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936)などで諷刺され、人間を生産システムの一部として機械同然に扱う非人間性の象徴ともされるようになる。そしてフォード社は、労働者らによる労働組合運動に対しては、デトロイトの自動車メーカー各社の中でも、とりわけ冷淡かつ暴力的な手段で厳しく対処したのである。
その一方、流れ作業方式に代表される大量生産システムの発展によって生産効率が著しく高まったことで収益が増大し、非熟練労働者にも給与の上昇とい う形で還元されるようにもなった。可処分所得の大きくなった少なからぬ労働者がフォード・モデルTを所有するに至った。それは労働者階級を含む巨大な大衆 層を担い手とした大量生産・大量消費時代の先触れであった。
モデルTの年間生産台数は、1910年の1万8,600台強から、1年で50%から100%の割合で爆発的に激増した。
イギリスで の組立が始まった1911年、年間生産台数は3万4,500台以上であった。ハイランドパーク工場で流れ作業方式が開始された1913年には年間生産台数 は16万8,000台以上となる。1916年には53万4,000台弱に伸び、1919年のみ第一次大戦後の終戦不況の影響で生産量が減ったほかは、年々 増加した。
1921年には年間生産台数は99万台弱を生産し、翌1922年には121万台を超えて100万台オーバーの大台に達した。そして1923年には、 1年間で205万5,300台以上を生産してピークに達する。その後、減少傾向を辿るものの、生産中止前年の1926年時点においても1年間で163万台 弱のモデルTが生産されていたのであるから、いかに圧倒的な生産体制であったかが推し量れる。一時、アメリカで生産される自動車台数の半分以上がフォー ド・モデルTだった。
この膨大な規模の大量生産体制によって、モデルTの価格はひたすら下がり続けた。
だがこの過程で、モデルTは小改良を加えられるだけで長く抜本的なモデルチェンジを施されなかった。ヘンリー・フォードの意向に沿って、ひたすら廉 価に大量供給することだけに邁進していたのである。ヘンリーは、「モデルTは既に『完璧な製品』であり、代替モデルを開発する必要はない」と頑なに信じ込 んでいた。
ヘンリー・フォードの息子エドセル・フォードは、1919年からフォード社社長に就任していたが、叩き上げの父ヘンリーと違って高等教育を受けたインテリで、子どもの頃から自動車に親しみ、自動車技術の改良発展やカーデザインのあり方に対して優れた見識を身に付けていた。
エドセルには、1922年にフォード社が買収したリンカーン(そ の買収時点では、品質と走行性能は卓越していたが、ボディデザインが武骨で高級車としての商品性を欠いた)に高級ボディメーカーの製造したボディを与え、 商業的成功を収めた実績もあった。エドセルの発案によってのち1939年に作り出されたのが、史上屈指の美しい自動車と言われるリンカーン・コンチネンタルである。
エドセルはフォード社の経営を広い視野から判断し、1920年代早々の時点で「モデルTには抜本的改革―モデルチェンジが必要だ」と考えていた。ま たフォード社の中でも将来を見る眼のあった幹部たちや、他社との販売競争にさらされている少なからざる傘下ディーラーも、同様な考えを抱いていた。
だがエドセルを社長職に据えたのも名目のみで、なお経営の実権を握り続けるヘンリー・フォードは、周囲の忠告や意見にも一切耳を貸さず、モデルTにこだわり続けた。その実、モデルTの問題点は時代の変化に伴って顕在化しつつあった。
重量増加が大きな問題であった。ツーリング型で1908年当初1250ポンド(545kg) であった車重は、電装部品の追加装備や内外装のグレードアップで年々増加し、1916年型で1400ポンド、1918年型で1500ポンド、1923年型 では1650ポンドになった。1926年型では1728ポンドにも達したのである。ところがこれに対し、エンジンは一貫して20HPのままで、変速機も2段式だけであり、エンジン性能が車重に釣り合わなくなっていった。
またオープンのツーリング型に代わって、第一次世界大戦後に屋根付きのクローズド・ボディが市場の主流となると、更に重量が200ポンド〜300ポ ンドも増加し、ますます悪条件となった。加えて古典的設計のモデルTはシャーシ自体が腰高であり、またそのシャーシもさほど重量車向けに設計されたもので はなかったため、トップヘビーになるクローズド・ボディには不適合であった。
モデルTに代表される自動車の大量普及によって、アメリカでは道路整備が進展し、舗装道路も年々増加していた。それはとりもなおさず自動車の高速化を招いた。1920年代、高級車業界では6気筒から8気筒、12気筒といった多気筒エンジン車が輩出されて70〜80マイル/hの最高速度に達するようになり、4気筒の大衆車でも性能向上で55〜60マイル/hに達するものは珍しくなくなっていた。
これに対し、40〜45マイル/hがせいぜいのモデルTは、重量増加によって更にポテンシャルを落とした。1920年代、「ティン・リジー(モデル T)はいくら抜いても追い越せない」と揶揄されたが、台数の凄まじい多さ故に路上でモデルTを何台追い抜いても別のモデルTが先を走っている実情を示すと 同時に、極め付きの鈍足であったことをも物語っている。
また、モデルTはボディ形態のバリエーションは非常に多かったものの、どれも実用を第一としたエナメルの黒塗り一色であり、後期にはデザイン面での魅力を欠くようになった。ボディデザインもそれなりのアップデートは図られたが、時代遅れの腰高なシャーシでは、時流に即したデザインのボディを架装することも、デザイン上のバランスと技術の両面から容易に叶わなかった。
競合他社は、性能面もさることながら、自動車の「ファッション」としての面をも重視した。競合メーカーであるゼネラルモーターズ(GM)は、自社の大衆車「シボレー」に多彩な塗装を用意するなどの戦略で、ユーザーにアピールしていた(GMには化学メーカーのデュポンの資本が入っており、新しいラッカー系塗料を用いることができた)。また、スタイリングにも配慮がなされ、モデルTよりも低重心で、高級車を思わせるデザインが取り入れられて、商品性を高めた。
GMのトップであった辣腕経営者アルフレッド・スローンは、大衆がより上級の商品、より新味のある商品に惹かれることを理解していた。たとえ廉価な大衆車であっても、高級車を思わせる形態やメカニズムを備えることで商品力は高まり、単なる実用車に飽き足りない消費者の関心を惹き付けることができた。
スローンは大企業の経営管理に精通した人物であり、巨大組織をシステマティックに統括する近代的企業経営手法を構築し、綿密な市場調査と生産量のコ ントロールとを伴った高度な販売戦略を進めることで、着実な利益確保を図ろうとした。この企図は1920年代を通じて着々と成果を挙げていた。
対してヘンリー・フォードは、GM等の手法を批判的に見ていた。ヘンリーはフォード社の専制君主として君臨し、モデルTを安く大量に生産・販売する ことのみに邁進していた。より安ければ当然よく売れ、またそれが社会への還元にもなる、という、古い時代の単純素朴な奉仕思想が背景にあった。
だがそのような旧式な方針では、低価格化や収益確保の面でいずれ限界を迎えることは避けられなかった。自動車自体の商品性以外に、経営手法の面でも フォードは時代遅れになりつつあった。自動車市場と経済システムの双方が成熟するにつれ、フォードの姿勢は時代にそぐわなくなっていったのである。
1920年代中期のGMのマーケティング戦 略は更に尖鋭化し、シャーシは前年型と共通でも、ボディデザインに年度毎の新味を与える「モデルチェンジ政策」を用いて、在来型を意図的に陳腐化させるこ とが行われるようになった。GMが打ち出したこの商品戦略は、競合他社も否応なしに取り入れざるを得なくなり、1970年代までアメリカの自動車は、1年 毎にボディデザインを変化させることが当然となった。
シボレーが年々スタイリングを変化させ、時代の先端を行くデザインで大衆にアピールする一方で、根本的に古すぎ、普及しすぎたフォード・モデルTは、著しく陳腐化した「安物」的存在に堕して行った。
モデルTの大量生産によって、1920年代に入るとさほど富裕でない大衆層にまで自動車が普及し、アメリカの大衆車市場は既に飽和状態になっていた。このため新規需要に代わって、買い換え需要が自動車需要の大方を占めるようになった。
いざ買い換えの段になると、最新型でも旧型とさしたる変化のないモデルTを、好きこのんで乗り換えの対象とするユーザーは多くなかった。初めての自 動車がモデルTだったユーザーも、GMなど競合他社の斬新なニューモデルに惹かれ、古いモデルTを下取りに出して他社の新車を購入するようになった。商品 性に歴然とした差があったため、ユーザーは100ドル、200ドル程度の価格差はさほど意に介さなかったし、セルフスターターや屋根付きボディなどのオプ ションが付けば価格差がより縮まるため、モデルTの競争力は削がれた。
更に競合他社は割賦販売(分 割払い)を行って、収入の限られた人々でも上級モデルを購入しやすくしたのに対し、フォードは割賦販売の導入でも出遅れた。農民の家庭に生まれ育ち、保守 的な倫理観を持っていたヘンリー・フォードが、借金としての一面を持つ割賦販売という手法を、道徳面から好まなかったためである。
モデルTも、1925年からはオプションで競合他社並みのバルーン・タイヤが 設定され、1926年には黒以外のボディカラー3色をオプション設定するなど、遅ればせながら対抗策を打ち出したが、既により強力なエンジンと、比較的扱 いやすいコンスタントメッシュの3段変速機、安全性確保に効果のある4輪ブレーキとを備えたスマートな競合車が多く出現する中で、非力なエンジンと2段変 速機装備で後輪ブレーキのみの鈍重なモデルTは、商品寿命が尽きていることは明白であった。
ここに至ってワンマンのヘンリー・フォードも、ついにモデルTの撤収を決断せざるを得なかった。1927年5月26日、ハイランドパーク工場で 1,500万台目のモデルT(ツーリング)が完成した――その日、モデルTの生産は終了したのである。ただし自動車用以外の用途を想定したモデルTエンジ ンの生産は同年8月まで続行され、T型部品の生産も続けられた。
アメリカ本国及び諸外国で19年間に生産されたモデルTおよびモデルTTの累計生産台数は1,500万7,033台であり、1972年2月17日にフォルクスワーゲン・ビートルが累計生産1,500万7,034台を達成するまで、約44年9か月に渡ってモデルチェンジなしの史上最多量産車の記録を保持した。
ヘンリー・フォードはモデルTの製造終了時点まで、後継モデルのことを全く考えていなかった節がある。 経営面への影響を考慮すれば異例を通り越して奇怪なまでの無神経ぶりであるが、その結果、同年末近くまで約半年以上、フォードの大衆車の生産自体が途絶し てしまった。数か月のうちに急ピッチで新車開発が進められたが、リンカーンの影響が強いデザインに強力な40HPエンジンと一般的な3段変速機、4輪ブ レーキを備えるモダンな後継車「モデルA」が発表されたのは12月で、生産設備が新型車用に切り替えられ、その本格的な量産が始まったのは翌1928年に入ってからであった。
この空白を突いたシボレーの販売攻勢と、その後の大恐慌時 代においてGMが時宜を得た生産調整で不況に対処したのに対し、フォードが適切な利益管理手法を怠ったことによって、アメリカの(ということは、当時にお いては同時に「世界の」)自動車産業界におけるトップの座は、フォードからGMへ移行し、それは自動車業界の固定したパワーバランスとして長く恒常化し た。
フォード社はモデルTと共に大きく発展したが、最後にはそのモデルTによって躓くことになったのである。マスプロダクションの極致を実現したフォー ドは、やがて大量生産の限界に行き着き、自ら招いた時代の変化に乗じたGMに、企業としての首位を譲らざるを得なかった。その過程は、モデルTの20年に 渡る長い生産史から、如実にうかがい知ることができる。